やりたくないこと

塾長にも、学校でやりたくないことがありました。

 

体育祭は、小学校も中学校も応援団長でしたが、なぜだか希望もしていないのに応援団で、しかも団長にさせられていました。最高学年になると応援団に入らされて、しかもまとめさせられる。嫌な思い出しかありません。今思い出しても、“良かった”とは思っていないです。

 

合唱は、いまだにやる意味がわかりません。塾長は歌が苦手なので拷問に近いと思っています。

大学の授業で、小学校や中学校では合唱などの特別活動が大切だと勉強しましたが、それでも納得していません。

大学の音楽の授業では歌ばっかりでしたが、音楽の授業で嫌な思いをしてきた人が多いことを先生はわかっているようでした。それだけが救いに思えました。

 

塾長が小学校4年生ぐらいだったころのある日、夏の体育の時間でプールの予定でした。その日はくもりで時々雨が降っていて少し寒く、プールに入れるかギリギリの気温でした。

先生たちが話し合った結果、プールに入ることになりました。

教室中が「やったー!」との声で喜んでいました。

しかし塾長は寒いのが嫌いで、プールも嫌いです。だから、みんなより1秒遅れて喜ぶみんなに合わせました。泳ぐのは得意な方なので、友達は、塾長がプール嫌いなことは分からなかったと思います。

 

たぶん、大人たちや学校の先生は、「やりたくないことも勉強のうち」と言うのだろうと思います。

しかし、「やめる」という選択肢が残されていないことには納得できません。

 

塾や勉強は嫌なら辞めることができます。

 

 

勉強が少しできたところで、誰もほめてくれませんでした。

小学校は足の速いやつが、中学校は少しやんちゃなやつが、高校はおもしろいやつ、野球部やサッカー、バスケ部のやつらが男子のヒエラルキー(身分制度)のトップにいるのです。

 

 

不公平だと思うこともありますが、平等は後からやってくることもある。

かっこよくてモテてたあいつは30歳で体重が2倍になり、髪の毛は半分に。

 

これからの時代は、「やりたくない」が選べる時代になっていくのかもしれません。

しかし、やりたくないことができる人の方が強いんだろうなとは思います

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今日も昨日と同じか

差別はなくならない。

 

ほかと分けることを差別という。

シンデレラは美しいだけで金と名誉を1日で手に入れて、見かけが悪いおじさんは、公園のベンチに座っただけで通報される。これはどちらも差別である。

年を取ると、アイドルの顔がみんな同じに見えてくるのは本当だ。

どこの塾も予備校も、女子高生の絵やモデルが使われているが、あんなものに意味があるのだろうか。世の中の中年は、みんな同じにしか見えていないと思う。

東北大学が、女性限定の教授を募集したそうだ。男女格差を無くすと書いてあったが、本当にそうだとしたら、性別で募集するのは間違いではないだろうか。

 

同級生の女性が「結婚したら仕事したくない。」と言っていた。

これも価値観の一つだろう。

 

笑われて笑われて強くなる

                                   太宰 治